従属の儀式「歌とダンス」~支配者を歓喜させ、民衆の正気を奪う集団調教システム~

【加賀藩 精神独立基盤 11】

従属の儀式「歌とダンス」
~支配者を歓喜させ、民衆の正気を奪う集団調教システム~

一、 歌とダンスの歴史的本質:支配者への捧げ物

教育現場において歌とダンスが必修化されて久しい。しかし、そもそも「歌とダンス」の本質とは何であるか。

元来、獣の世における歌舞とは、王や貴族、宗教といった支配者へ捧げる「服従の供物」であった。「神への奉納」などと美化されてきたが、その正体は、神の代行者を偽る権力者が民草の舞い踊る姿を見下ろし、愉悦に浸るための強制に過ぎない。

現代の政治屋、役人、大企業、あるいは五輪や大規模スポーツを牛耳るグローバル資本も同様である。「替えの利く民草が束になって我らのために踊っておるわ」と嘲笑い、支配の優越感を貪っているだけであり、そこには何の生産性も存在しない。


二、 歴史の証明:日本本来の文化に「集団の歌舞」は存在しなかった

そもそも歴史上、我が国には西洋的な意味での「集団の歌とダンス」など本来存在しなかった。古代に多楽というものが存在したが早期に廃れ、残ったのは楽器の演奏や、能楽・猿楽のように「西洋の歌やダンスとは全く異なる静寂と型の技芸」であった。

個で歌う文化すら限定的であった日本において、大勢で同時に歌い踊る風習など、誠実な人の世には「存在してはならぬもの」であったのだ。

今日見られる「集団の歌とダンス」とは、敗戦後に「獣の世(米英等)」から押し付けられた精神解体・従属化の植え付け文化に過ぎない。支配者へ服従を示し、民草を家畜化するために持ち込まれた異物の不法である。

三、 集団同期による「正気の破壊」

世間は「歌とダンスは人を癒す」と謳う。では、それを世界中に広めた米国の大衆は心身ともに癒されているか?現実は消費を煽られ、精神を追い詰められているだけではないか。

「一定のリズムで身体を激しく動かし、集団で同調させる行為は、個の思考と意志を奪う。」

集団行動の強制作用だけでも恐ろしいものであるが、定期的なテンポに合わせて複数人で同時に身体を動かす訓練は、人間の正気と主体的な思考能力を直接的に削ぎ落とす。

学校教育でこれを強制し、「うまく踊れる者が優秀」と洗脳する行政の本質とは、支配層が民衆に対して「我らへの奉納品(従属の証明)」を要求している構造に他ならない。

四、 歌とダンスそのものからの離脱

断言するが、どれほど歌やダンスを磨いたところで、支配システムの奴隷から成り上がることは絶対にできない。成り立ちたいと願うならば、自ら商売を起こし、独立した基盤を築く方が遥かに現実的である。「歌とダンスをする側」ではなく、「構造を動かす側」へ回らねばならない。

しかしここで冷徹な物理的事実がある。

「歌とダンスは、演じる者のみならず、見る者の正気(前頭葉)をも破壊する。」

一定のリズムで身体を集団同調させる行為が演者の思考を奪うのは勿論のこと、それを見て喜んでいる側の前頭葉もまた強烈な刺激で焼き尽くされる。支配者を気取って観客席で愉悦に浸っている者自身が、既に「奴隷システム(狂気)」の一環に組み込まれ、正気を失っているのだ。

「踊る側」にも「見る側」にも回るな。その場から完全に離脱せよ。

支配層が作り上げた舞台の上で無償の労力とエネルギーをすり減らすな。また、その狂気の演舞を鑑賞して前頭葉を焼かれるな。歌とダンスに時間も、労力も、金も捧げる必要はない。集団の同調圧力や娯楽の罠など適当に受け流し、その場から距離を置いて己の正気と生活基盤を守り抜くことこそが重要である。

五、 結び

集団で踊らされ、歌わされる空間の正体とは、演者と観客の双方の前頭葉を焼き尽くし、個の意思と正気を奪い去るための調教システムである。

他者の支配や娯楽のために己の身体と脳を差し出すな。
踊る者にも見る者にもならず、その空間から離脱せよ。
不生産な空騒ぎを排し、自律した静寂の中に正気を刻め。

獣の世の虚構文化を脱し、日本本来の自律した静寂に立つことこそが「人の正気」であり、加賀藩における精神の独立基盤である。

— 加賀塩之介 —


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